横井小楠先生を偲びて 山崎正董述
昭和24年2月15日 横井小楠先生顕彰講演会講演録 熊本県教育委員会

 1 緒言 (その一)   ・・・・出典

横井小楠先生を師とし友とせる元田東野は、先生を道学の俊傑とも帝者の師とも称し、又「先生の識見の快潤なる意気の軒昂なる、
前に古人なく後に今人なしと云うべく、我れ多くの人に交りたれども、か程の活見者は見たること無く、恐らくは天下の人にも
多くはあるまじ」と推服して居り、又先生と意気投合していた長岡護美が先生を評せる七言律詩の中には「奇才天授誰か与に
儔せん」とか「識は高く論は卓き第一流」などの句があり、明識達眼なかなか人に許さぬ勝海舟も「小楠は胸五洲を呑み眼一世を
空しうす」と評し「おれは今までに天下で恐ろしいものを二人見た、それは横井小楠と西郷南洲とだ。横井は西洋のことも別に
沢山は知らず、おれが教えてやった位だが、その思想の高調子な事はおれなどはとても梯子をかけても及ばぬと思ったことが
しばしばあったよ」とも云っている。

幕末の人材多しといえども、学東西に通じ識古今に絶した真の一世の宗師は、東に佐久間象山あるに対して西には我が小楠先生を
推さざるを得ない。実に先生は鎖国自ら小なりとせし時代に世界的眼光を有した偉人であった。
 
先生の偉器は肥後藩学の時習館時代に既に其の一半を玉成して、天保十年江戸に遊学した際にも、藤田東湖に推挙されて水戸斉昭
より聘用の内意を受けた程だ。爾後十数年ますます長養の功を積んだ先生と、嘉永六年に会見した吉田松陰は、別後書を寄せて
長州に来りて同藩の君臣に指導を与えんことを懇請し、橋本左内も亦松平春嶽が先生を賓師として聘用せんとするの議熱心に支持し、
一橋慶喜は文久二年先生と対面し、その人傑なるに感服して幕府に重用せんとし、高杉晋作は万延元年特に先生を福井に訪うてから、
久坂玄瑞に「横井中々英物、有一無二之士」と書き送り、翌文久元年には先生を熊沢蕃山にも譲らぬ人物と推称して長州藩に聘用
せんと主張し、坂本龍馬は慶応二年当時天下の人物として挙げた九人の中に先生を加へまた先生の參与時代に最も先生を信頼したのは
新政府の柱石岩倉具視であった。

此等の人々は当時の人傑中の翹楚であるに、何故かくも小楠先生に傾倒したのか。かの維新の大立物と称せらるる西郷・大久保・
木戸の如き傑物でさえも、当時の封建的因襲に囚われて、動もすれば自藩本位に思惟し行動する傾きがあったのに対して、独り先生は
常に直ちに日本の国家、万国中の日本という見地に立ったので、其の識見がたしかに他より数等高いものであった為でなかろうか。

現在小楠先生を熟知せることに於て第一人者たる徳富蘇峰が沼山津の先生頌徳碑の文中に「識見高遠、気宇潤大、一代の木鐸、百世の
師表と為り、東亜の偉人と称すべきは実に我が小楠横井先生を推さざるを得ず」と述べて、特に東亜の偉人と云っているのは此の
意味であろう。

 1 緒言 (その二)   ・・・・出典

先生が此の如く東亜の偉人とまで云われるのは、どう偉いのか、先生の本領は果して何処にあったであろうか。先生は恰も雲間の
遊龍で、吾々風情の者ではなかなか描きにくいが、古人の所謂「大上は徳を立て、次は功を立て、その次は言を立つ。
久しうして廃せず、此をこれ不朽と言う。」なる「三不朽」の語に照らして、先生の人物を窺って見ると、先生は其の身に徳を
立てて率先躬行以て天下を風化する底の大上的有徳者には未だ達していなかった。

次に功を立てて天下を救うことは、もとより先生の志ではあったが、政治の実際は先生自身には之に当らずして負担せしめた。
それは先生自ら己を知つていた為であろうが、又好みもしなかつたらしい。

元田東野が先生の親友なる荻昌国に、先生を評して「王佐の才」「帝者の師」と言ったのを聞いた先生は「吾れまた之を知る、
吾れは執政の人に非なるなり」と自ら之を認めて居り、勝海舟も「おれはひそかに思った。横井は自分に仕事をする人ではない
けれども、若し横井の言を用うる人が世の中におったら、それこそ由々しき一大事だと思った。その後西郷と面会したら、
その意見や議論はむしろおれの方が優る程だったけれども、所謂天下の大事を負担するものは、果して西郷ではあるまいかと、
またひそかに恐れたよ。

そこでおれは幕府の老中に向って、天下にこの二人が居るから、その行末に注意なされと進言しておいた。

おれは横井の思想を西郷の手で行ったら、最早それまでだと心配して居たに、果して西郷は出て来たわい」と物語っている所など
からすると、先生は最後の言を立てて一世を指導すること、これこそ真に先生が本領として自任した所である。

凡そ言を立てるには博学多識、胸中常に汲めども尽きざる無限の蘊蓄を要する。

又神智霊覚、時事に対する先見の明と臨機応変事を善処するの識あるを要する。

且つ之に加うるに、大胆に率直に所信に向って邁進する勇気が必要である。

先生は実に此等の要素を遺憾なく具えていた。これ先生が立言の雄として当時天下に並びなき第一人者と、人も許し自らも任じた
所以であった。

かく考察すれば、先生は古人の所謂「三不朽」中第三位(立言)に立脚して、第二位(立功)に歩を進め、第一位(立徳)には
ただ天理を説き大義を四海に布く上からのみ言及したものと思われる。

 1 緒言 (その三)   ・・・・出典

先生は言を立てて一世を始動したので、当時名ある政治家の仕事の中には先生の主義経綸より出たものと思わるるのがいくらもある。
その又一方に於て先生は、肥後では小楠堂なる私塾を開き、福井賓師時代には藩学明道館に於て、親しく子弟を教授したが、先生の
性格には教師として優れた点が多くあり、又先生の教学観にも大いに見るべきものがあったので、其の門下から優秀なる人材が雲の
如く輩出した。

しかも、それ等の門弟は先生を神の如くに尊崇し、先生の持論抱負を継承しつつ邦家の為に尽瘁した。その最も顕著なるものを挙ぐれば
福井藩の由利公正であった。
由利は先生の最も愛信した門生で、終始恩師の持論を服膺し師の抱負を着々実現せしめたのであった。

由利の功績中には小楠先生の抱負の龍っているのが少くないが、その中で特に述ぶべきは、明治新政府の參与時代に於ける二大勲功として
有名な太政官札発行と五箇條の御誓文起草とである。

彼が太政官札を発行して軍事費を支弁し維新の大業を翼賛したのは、福井藩に於て小楠先生指導の下に藩札を発行して殖産貿易を興し、
大いに藩政に貢献したのと其の趣きを同じうせるもであって、先生の教導開発に因由していることに疑いはない。そして御誓文に於ては、
その立案者は由利で、福岡孝弟之に意見を加え、更に木戸孝允の考慮も添うて其の正文が出来上ったのであるが、最初の由利案は左の
通りであった。

 一、庶民志を遂げ人心をして倦まざらしむるを欲す。
 一、士民心を一にして盛に経綸を行ふを要す。
 一、智識を世界に求め廣く皇基を振起すべし。
 一、貢士期限を以て賢才に譲るべし。
 一、萬機公論に決し私に論ずるなかれ。
 
これを見ても、亦出来上った正文を見ても、既に其の全体に於て小楠先生の論著や建白類等に表われている主義や持論が多分に含まれ居り、
其の要目が先生得意の箇條書きになって居り、その中心文句にも先生の慣用語が用いられて居る所などからしても、徳富蘇峰が沼山津頌徳
碑文に記せる如く、此の御誓文は先生の「暗冥賛によるものあるは識者の夙に認知する所」である

 1 緒言 (その四)   ・・・・出典

先生の偉大なる教化につきての話が、思わず長くなったのでここで打ち切るが、先生の生涯を概観すると、それは決して華やかなもの
では無く、云わば明治維新の縁の下の力持ちであった所に先生の偉大さがあって、先生は廣い意味に於ける卓抜な教育家であったと
云っても大なる間違いではないように思われる。
 
西洋の諺に「誤解は英雄の税金」というのがあって、兎角偉人には誤解が附き物であるが、我が小楠先生に對してはそれが深刻であって、
幾回か刺客に狙われた揚旬、遂には其の凶刄に れたのみか、没後までも、久しく誤解と悪声とが消えなかった。

これは「出る杭は打たれる」という俗諺があり、シェークスピアもHigh place great dangerと云っている通り、
先生の識見議論は当時にありては余りに進歩高邁で、世の嫌疑を受けるは当然と思われる程であるのに、それを時と場所とを顧みず
極めて率直に有りのままに悉くを吐露するを憚らなかったのが主なる原因であった。又「偉人は郷国に容れられず」で先生の生国たる
熊本では、感情も加わって、先生に對する毀誉褒貶は最も甚だしかった。

前に述べた如く、一世の俊傑をして傾倒せしめる先生であるだけに、一方には神の如くに崇拝する人も無論多いが、一方には先生を
ひどく毛嫌いする一派もあって、此の派の人達は先生の通称「横井平四郎」をまともにいうことさえ好まずに「横平々々」と呼びすてに
していた。

此の両極端の対立は年と共に大分緩和されはしたが、今日に於てもなおそのなごりが幾分残っている。

然るにも拘らず、本県教育委員会では、文化に功労のあった人士を物色して、第一に小楠先先生を選び、先生の八十周年忌に当たる
本日をトして、その顕彰講演会を主催され、ここにかかる盛会を見るに至ったことは、我が熊本では未だ会って有らざる事であるが、
大戦後我が国が文化日本、平和日本を建設せんと努力している今日、文化に功 あるのみならず、すでに百年の昔に世界の平和を
提唱した−これに就いては後に述べるが−偉大なる教育家たる小楠先生を顕彰されようとすることは真に意義深きものがあって、
私は此の催しに対しては深甚の敬意を表するものである。

先生に開係のある人々の満悦は申すまでもなく、先生も亦地下に於て会心の笑みを漏らして居らるることと思うのである。

 2 「横井小楠伝」著述の動機 (その一)    ・・・・出典

「横井小楠伝」著述の動機(小楠先生の肥後西洋医学弘奨)
此の講演会に於て先生を語るのには外に然るべき人がおろうと思うのに、県教育委員会が私にその講演を命ぜられたのは、只今永井教育
次長の御挨拶によると、私がさきに「横井小楠傅」を著述して之を刊行した為である。何故に医者である私が医者でもない小楠先生の傅を
著わしたであろうか。
此の著述に筆を染めた動機は、主として徳富蘇峰が之を勤め且つ請うたのによるが、そのもとは先生が肥後に於ける西洋医学の興隆に
大いに力を尽くしたのに基因するのである。今此の機会にそのあらましを述べて置きたい。

 徳富蘆花は其の著「竹崎順子」に、

肥後の維新は明治三年に来ました。それは横井小楠がかねて嘱望し遠ながら誘掖して置いた世子細川護久が家督を相続し熊本藩知事となり、
勅許を得て弟長岡護美と藩政改革に帰って来たのがきっかけでした。横井死後満一年で横井の時代が肥後に来ました。横井の息がかかった
若い藩主や、其弟が局に立つと横井の友人門人が網の元綱をしぼるやうに続々と登庸されます。

とかいているが、此の肥後藩政の改革は真に驚天動地と云うべきであって、又それを一転機として肥後の文化の海に泰西文明の流れが
澎湃として流れ込み、諸種の施設や殖産興業が勃興した。
それ等は先生と直接の関係はないにしても、其等に当った人達は全部と云わずとも殆ど皆先生の門下たらずんば間接にその教を受けたもので、
それ等のほとんどすべてに先生の息がかかっていて、西洋医学に於ても亦そうであった。

 2 「横井小楠傳」著述の動機 (その二)  ・・・・出典

熊本には昔から漢法医学が根強く広く行われていたが、小楠先生は之を斥けて頻りに西洋医学を鼓吹奨励した。自家は云う西洋医家の
診療を受けるよう勧め、西洋医家とは親しく交わって之を鼓舞し、其の窮せる者は之を補助し、又西洋医学を学ばんとする者を先生の
塾に入れて其の目的を達せしめるなど陰に陽に西洋医学の開発に力めた。

これが為に先生は当時の医者の殆ど全部を占めていた漢方医から甚だしい反感と迫害を受けたが、毫も意に介することなく西洋医学
興隆に尽瘁した。なお特に述ぶべきは、明治三年肥後藩府をして、宝暦六年創設して百十六年間も続いた漢法の医学校再春館を廃して、
西洋医学を興すべく古城医学所及び病院を創設せしめるの機運をつくったことである。

此の医学所及び病院は和蘭医官マンスフェルトを聘し、西洋医学に堪能なる邦医数名を教官とし、北里柴三郎、緒方正規、濱田玄達を
はじめ多くの名国手を出し、我が国医学界に大なる貢献をなしたが、もとは肥後藩政府に挙用された山田武甫、安場保和等の発議に
よって実現したもので、山田も安場も先生門下の錚々たる人であり、又その組織に見ても、教職員は田代文基を除けばいずれも先生の
門下生に非らざれば縁故者ばかりであった。

又此の医学所及び病院は明治八年に結社人の手に移されて公立通町病院及び教場となったが、これを維持することに尽力した人も亦
ほとんとすべてが先生の門下であった。

右医学所及び病院は肥後に於ける西洋医学を開発進歩せしむると共に、西洋医学の強固なる基礎となって実に一新時代を画したものであり、
通町病院及び教場も亦その後に起った県立医学校及び病院の連鎖となって肥後医学教育の中絶を救い、西洋医学勃興の頓挫を免かれしめた
のであった。

これ等の医育機関はたとい先生歿後に建設されたとしても、先生無かりせば恐らくはその建設さるる機運は生じないで、西洋医学は旧の
如く漢法医学により圧倒され蹂躙されて居ただろうと思う。

かく考えて来ると、小楠先生の先見卓識は肥後の医学を勃興せしむる上に大なる力だったのである。先生が早くから西洋医学を鼓吹せ
なんだら、その友人門下たる人々がその開発の為にああまで力めなかったかも知れぬ。

さすれば、肥後の西洋医学は寛永の昔にその根をおろしたとは云え、今日の如く隆盛を見ることが出来たかったであろう、隨って今日の
官立医科大学の実現などのことなくて終ったに違わぬ。そう思えば、小楠先生は肥後の西洋医学の大恩人である。


 五 開国論と世界平和論  (その五)   ・・・・出典

前に述べた如く福井藩主松平春嶽は安政四年先生を賓師として招聘せんとして家臣村田氏壽を沼山津なる先生の閑居に遣わして
その内意を傅えしめた時、村田は数日間滞在して先生の講義を聞いたが、その時の手記の中に「横井氏説話」として先生の話が
記述してある。

其の一に、

 道は天地の道なり、我国の外国のと云ふ事はない。
 道の有る所は外夷といえども中国なり。
 無道になるならば我国・支那といえども即ち夷なり。
 初より中国と云い夷と云う事ではない、国学者流の見識は大にくるいたり。
 終に支那と我国とは愚な国になりたり、西洋には大に劣れり、此でメリケン杯は能々日本のことを熟観いたし、
  決して無理非道な事を為さず、只日本を論して漸々に開国させんとする了簡なり。
 ここで日本にも仁義の大道を起さねばならぬ、強国になるのではない。そして此の道を明らかにして世界の
  世話やきにならねばならぬ。
 一発に一万も二万も戦死すると云う様なる事は必ず止めさせねばならぬ。そこで我日本は印度になるか、
 世界第一等の仁義の国になるか、頓と此の二筋の外には無い。

とあって、ここでも先生は仁義の大道を以て大義を四海に布き、世界に戦争を無くするの経綸を示している。
此の経綸はそもそも何に基因しているであろうか。
先生の高弟徳富淇水は彼の手書の中に「各国干戈を動かすより惨憺を極め天地好生の徳に叛くものなければ、先生は天人一致の
理想より、各国同盟して四海の干戈を止むるの論を発明せり」なる文字があるにても分かる通り、天人一体(致)の理想、
天功ー天の仕事を亮けるという人生の目的から出て来たのである。
 
先生の学は程子朱子から出ているが、先生は宋儒は体有りて用なしとて、致知格物治国平天下の道に於て工夫を竭くしたけれども、
決して其の境地を以て満足せず更に洙泗即ち孔孟に遡り、なおも進みて蕩々たる王道を闡明するを以て自己の任務となし、
百尺竿頭只天を説くに至った。
先生がかく聖道を遡り尽くして見るに至ったその天は果して如何なるのであるか、またそれに到達するには如何にすべきか。
元田東野が慶応元年先生を沼山津の草廬に訪いたる際の先生の談話を筆記した「沼山閑話」の中にかかる一節がある。

宋の大儒天人一体の理を発明し其説論を持す。然ども専ら性命道理の上を説て天人現在の形体上に就て思惟を欠に似たり。
其天と云ふも多く理を云ふ、天を敬すると云も此心を持するを云ふ。格物は物に在るの理を知るを云て総て理の上心の上のみ
専らにして堯舜三代の工夫とは意味自然に別なるに似たり。
堯舜三代の心を用ゆるを見るに、其天を畏るる事現在天帝の上に在せる如く、目に視耳に聞く動揺周旋総て天帝の命を受る如く
自然に敬畏なり、別に敬と云ふて此心を持するに非ず。故に其物に及ぶも現在天帝の命を受て天工を広むるの心得にて、
山川・草木・鳥獣・貨物に至るまで格物の用を尽して、地を開き野を経し厚生利用至らざる事なし。

水・火・木・金・土・穀各其功用を尽して天地の土漏るること無し。是現在此天帝を敬し現在此天工を亮る経綸の大なる如之。
宋儒治道を諭ずるに三代の経綸の如きを聞ず。
其証には近世西洋航海道開け四海百貨交道の日に至りて経綸の道是を宋儒の説に徴するに符合する所有る可きに、一として
是れ無きは何なる故に乎。
然るに堯舜三代に徴するに一に符合すること書に載る所の如し。
堯舜をして当世に生ぜしめば西洋の砲艦器械百エの精技術の功疾く其功用を尽して当世を経綸し天工を広め玉ふこと西洋の
及ぶ可に非ず。
是れ堯舜三代の畏天経国と宋儒の性命道徳とは意味自ら別なる所あるに似たり。
張横渠・西銘の合点は有れども、是も道理を推演して合点と覚ゆるなり。
治道事も封建をするの井田を興すと云諭あれども、是後世に廃れたる古法を疆て興さんとしても人情にも叶はず却て益なかる可し。
三代の如く現在天工を亮くるの格物あらば封建井田を興さずとも別に利用厚生の道は水・火・木・金・土・穀の六府に就て西洋に
開けたる如き百貨の道疾く宋の世に開く可き道あるべきなり。
時世古今の別あれば今日の様には開け間布くも其講究義述はいくらも説話の残りあるべけれども是れ無きは全く三代治道の格物と
宋儒の格物とは意味合の至らざる処有る可し。
一草一木皆有理須格之とは聞えたれども是も草木生殖を遂げて民生の用を達する様の格物とは思はれず、何にも理をつめて見ての
格物と聞えたり。
大儒を批議するには非ず、後学のもの徒に理学の説話にのみ奔りて現在天人一体の合点なければ大源頭に狂ひありて事変の上に於て
道を得ざる事多し。能々合点致す可き事なり。

これによると、先生は「現在天人一体」を説き、此の合点なければ「大源頭に狂ひありて、事実の上に於て道を得ざること多し」と
云って居る。
先生の天に対する信仰は大聖舜が旻天に父母に号泣したのと等しく、最早学理を超脱している。而も先生の天人一体の理想は早く
其の昔先生が始めて勝海舟と会見した時書き与えた「帝万物の霊を生じて、之をして天功を亮けしむ、所以に志趣大にして、神は
六合の中に飛ぶ」という人間の貴きは此にあるを賦した五絶と全く其の意を同じうするのである。
なお先生は天の実現の道を同「閑話」の中に、

人は三段階有ると知る可し。総て天は往古来今不易の一天なり。
人は天中の一小天にて、我より以上の前人、我以後の後人と此の三段の人を合せて初て一天の全体を成すなり。
故に我より前人は我前世の天工を亮けて我に譲れり。我之を継で我後人に譲る。後人是を継で其又後人に譲れり。
前生・今生・後生の三段あれども皆我一天中の子にして此三人有りて天帝の命を任課するなり。
仲尼祖述堯舜継前聖開来学是孔子のみに限らず。
人と生れては人々天に事ふる職分なり。身形は我一生の仮託、身形は変々生々して此道は往古来今一致なり。
故に天に事ふるよりの外何ぞ利害禍福栄辱死生の欲に迷ふことあらん乎。

と述べている。此等先生の説話を味読すれば、要するに先生の思想は天を極天として、天工を受け天工に参与するのを人生の
目的を遂ぐる唯一の道としている。
先生は上は王公貴人より下は市井の庶民に至るまで、機会ある毎に之を説き、これにより世を経し民を済わんとした。
大義を四海に布き世界に戦争を無くせんとするの経綸も茲に述べた天に対する敬虔な信仰より出でたものに相違ないのである。

 五 開国論と世界平和論  (その六)   ・・・・出典

話少しく変って先生は大の亜米利加贔屓であって、特に二甥を米国に遊学せしめたのである。それにはいろいろ理由もあろうが、
その国状が気に入ったからであろう。特に日本の国体をそうしようとまでは考えなかったけれども、共和政治の価値をたしかに
認めたことや、その国の元祖にワシントンがあって世界の平和に力めていたことも与って力があると思う。
 
先生はワシントンを或は白面碧眼の堯舜以後の第一人物と云い、或は堯舜以来の聖人或は優る所あるやもしれぬと云つて其の人物に
私淑傾倒した余りに、ワシントンの肖像を亜米利加から取寄せて、自分の家は勿論、門弟の家の?間に掲げしめた。
かく先生がワシントンを推称した理由は那辺にあつたか。

先生自からワシントンについて書いた文章は無いが、先生と異体同心の元田東野は「華盛頓賛」なる文を書いている。
その中にはワシントンが英政に苦しめる民を救うべく英軍と戦い遂に米国に独立不羈の国是を定めたる其の義気と其の徳義心厚くして
特に功利心の無かった所を絶賛している。

小楠先生の意中も亦之と合致していると思うが、ワシントンが列国に対し極力親善平和政策を執り、世界に戦争を無くすることに力を
濺いだことも其の理由の一つだと思う。
 
元治元年井上梧陰は沼山津の草廬に先生を訪い、先生の卓見を叩きつつ一問一答したのを自ら筆記して「沼山対話」と題しているが、
其の中に欧羅巴などに戦争の起るのは各国に割拠見があって、それぞれ自国に都合のよいことを主張する故であるから、此の割拠見さえ
無くば戦争は起らぬと云うことを述べた処に「真実公平の心にて天理を法り割拠見を抜け候は、近世にては亜米利加ワシントン一人
なるべし、ワシントンの事は諸書に見え候通り、国を賢に譲り、宇内の戦争を息るなどの三個條の国是を立て、言行相違なく是を事実に
践み行ひ、一つも指摘すべきことは無之候とあり、又元田東野の「沼山閑話」の中にも「西洋通信以来相当の歳月を経たれども、此の邦の
人情を知らざるが故に兵庫の開港談判も長引き双方の事情通融しない。

苟くも人情に通ずれば戦争の惨毒は止む筈だ。ただワシントンのみは此の見識があった。西洋の列国も此の見識がなければ百年河清を
待つが如く、いつまで立っても戦争の絶ゆる時はあるまい」とあり、又慶応三年亜米利加にある二甥に与えた書面中にも「西洋列国是迄
有名の人物を見候ても、アレキサンデル・ペイトル・ボタマルテ抔の類、所謂英雄豪傑の輩のみにて、ワシントンの外には徳義ある人物は
一切無之、此以来もワシントン段の入物は決して生ずる道理無之、戦争の惨憺は以甚敷相成可申候」とある。

かくの如くワシントンの事を記した所には必ず戦争防止の事があるのを見ても、ワシントン尊敬の理由には彼の世界平和に力めたことが
加わっているに間違いないと思う。
 
是迄述べた所によると、先生は国際協調主義者でもあり、世界平和主義者でもあったが、なお先生は霊物一如論者であって、霊と物とは
裏と表で、心あらば必ず外に現われる、一つの事をするにしても、二つの物を拵えるにしても、一つの議論を立っるにしても、心の誠から
やるべきで、そうすれば又必ず立派なものが出来る。人が銘々大義を四海に布くの精神を以て世界平和を招来せしめんとする心あらば、
必ず平和を実現するとの見地に立っていたので、恰かも今日の「ユネスコ」と一致している所もあった。
 
欧州大戦以後にも国際連盟とか、世界軍縮会議とか、或は不戦條約とかが行われて居り、最近に至りてはかの世界的学者たるアインシュタインは、
戦争を不可能とし、国際的問題を法によって解決するに足る国家を超え強い秩序の創設即ち世界政府の樹立を強調し、米国はもとより英・仏・
その他の学者・文化人・政治家によつてその具体化が促進されようとしているが、小楠先生はかかる種々の戦争防止、平和工作の意見を、すでに
今から百年前の幕末内外多事の際に、しかも最も国際情勢に鎖国日本の小天地に於て主張したのである、これはたしかに一つの世界的驚異と
云わなければならぬ。

佐久間象山が皇国をして五大洲の宗たらしめんと説いた大経綸とは別の立場に於て先生の偉大さがある。ここが先生の一大先覚でもあり東洋の
偉人でもある所以であって、先生の学問と見識は今日の時代に於ても我々を啓発するところ実に甚大であると思う。
 
先生はかかる卓見を心の中にしまいこんでいたのでなく、これを忌憚なく吐露したのである。元田東野は当時すでに開国の説を抱いてはいたが、
小楠先生から開国論、世界平和論を聞かされて大いに其の卓見に敬服し、之を彼と先生との親友である荻昌国に語ると、荻は「小楠の開国論は
八十二斤の青龍刀だ、之を振う者は小楠の外有るべからず、君の如きは此の論を筺底に埋在して決して出してはならぬ」と戒しめたので、
東野は之を服膺し、会て人に向って喋々しなかったが、後来攘夷の説ますます盛んになり、開国論者はすべて佐幕家と敵視されて身の殃を
招いたのを見て、荻の戒めは自分の薬石となったと其の手書中に記している。

当時やや識見あるものは荻や東野の如く皆口を緘して言わなかったが、小楠先生は時と場所を顧みずその青龍刀を盛んに揮ったので遂には兇刄に
殪れたのである。

我々は危地逆境の中心にあるも夷然として意に介しなかった先生の態度に対しても、憂国の熱情に対しても深甚の敬意を払わねばならぬ。

今回の第二次戦争前に於て、我が国にも戦争防止の意見を持っていた人は少くなかったであろうが、其等の人々が小楠先生の如く天理人情の
妙理を根拠として戦争の破棄すべきを唱え、之を忌憚なく勇敢に吐露したならば、或は戦争は起らずして今日の敗戦の惨めさも見ずにすんだでは
ないかと思うと遺憾に堪えぬ。

しかし、我々は小楠先生の如く、過ぎ去ったことをくよくよ考えても仕方がない、今は禍を転じて福となすことに努力せねばならぬ。

日本は今や武力を捨てて文化の力にすがって立ち上ろうとしている。日本ほど世界平和の工作をなすのにふさわしい国はない。我々は皆一致して
先生の所謂割拠見なるものをすて、天下公共の大道によりて自ら平和国家を建設すると共に、世界に平和を招来せしめねばならぬ。国民の一人
々々が自覚して其の力を結集すれば決して不可能のことはない。

私は考える、地球上最初の原子爆弾に見舞われた広島に平和塔を建てて、この惨害が再びほかの国土、ほかの人類の上に襲われることのない
ようにと冀いつつ、世界の平和を祈念するのは無論意義のあることであるが、私は今より百年前に於て、すでに世界平和を提唱した大先覚者たる
小楠先生の生国なる熊本に於て、或はその生誕地なる内坪井町か、或はその旧宅の残つている沼山津かに、一大平和塔を建てて、先生の卓見を
偲びつつ、平和日本の建設に精進するのも亦大いに意義あることと信ずるが、諸君には如何に考えらるるであろうか。(おわり)

   中興の立志七条
    小楠先生参与拝任後の書。固より献言の文体にあらず、或は謂う
    主上御壁書の草案の大要を摘記せしものならんかと、或は然らん。
一 中興の立志今日に有り。今日立ことあたはず、立んことを他日に求む。豈此理あらんや。
一 皇天を敬し祖先に事ふ、本に報ずるの大孝なり。
一 万乗の尊を屈し匹夫の卑に降る。人情を察し知識を明にす。
一 習気を去らざれば良心亡ぶ。虚礼虚文、此心の仇敵にあらざらんや。
一 矯怠の心あれば事業を勉ることあたはず。事業を勉めずして何をか我霊台を磨かんや。
一 忠言必ず逆ひ、巧言必ず順ふ。此間痛く猛省し私心を去らずんばあるべからず。
一 戦争の惨憺万民の疲弊、之を思ひ又思ひ、更に見聞に求れば自然に良心を発すべし。