総合環境研究会 : NPO オメガ ω   P・D・C・A  Why・4W1H
神奈川県/東京都 市民グループのデータ・バンク 創設:H12/2000/7/01 コンタクト=>文責: 宮崎碩文
「読書」部門
-- 書籍関連


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書籍関連
A001 :社会を変革する 遠大な思考実験    ■なめらかな社会とその敵  ■ルールに従う 朝日新聞 H25/2013/03/24
A001 :鈴木健氏「社会システム2.0 〜なめらかな社会とその敵〜」(第2回VCASIブレインストーミングセッション) VCASI
A002 :「なめらかな社会の距離設計」・・・・ 2006年1月14日 国際大学GLOCOM/ 議事録公開:2006年8月23日 国際大学GLOCOM H18/2006/8/23
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B001 :報道姿勢に反省はあるのか : ■・3・1とメディア  徹底検証新聞・テレビ・WEBは 何をどう伝えたか 朝日新聞 H25/2013/03/24
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C001 :「真のエリートとは」を問う : ■階級「断絶」社会アメリカ  新上流と新下流の出現 朝日新聞 H25/2013/03/24
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D001 :「原子力と科学者」 ・・・ 武谷三男著作集-2
D011 :「原子力をめぐる科学者の社会的責任」 ・・・ 坂田昌一著 岩波書店
D041 :原子力防災―原子力リスクすべてと正しく向き合うために
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H001 :「社会科学:政治をあきらめない理由   ・・・ ジェリー・ストーカー著 山口二郎 訳 岩波書店
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X001 :「論語」  WikiPedia
  『論語』(ろんご、b音: Lunyヤ )とは、孔子と彼の高弟の言行を孔子の死後、弟子達が記録した書物である。
  『孟子』『大学』『中庸』と併せて儒教における「四書」の1つに数えられる。

  四書のひとつである『孟子』はその言行の主の名が書名であるが、『論語』の書名が(たとえば「孔子」でなく)
  『論語』であるその由来は明らかでない。(『漢書』巻30芸文志[1]に「門人相與輯而論纂 故謂之 論語」と門人たちが
  書き付けていた孔子の言葉や問答を、孔子死後に取り集めて論纂し、そこで『論語』と題したとある。)

  別名、「倫語(りんご)」、「輪語」、「円珠経」とも言う。これは、六朝時代の学者、皇侃(おうがん)の著作
  『論語義疏』によると、漢代の鄭玄(じょうげん)という学者が論語を以て世務を経綸することが出来る書物だと
  言った所から、「倫語」という語が出現し、又その説く所は円転極まりないこと車輪の如しというので、
  「輪語」というと注釈し、「円珠経」については鏡を引用して、鏡はいくら大きくても一面しか照らし出さないが、
  珠(玉)は一寸四方の小さいものでも上下四方を照らすものであり、諸家の学説は鏡の如きもので一面しか照らさないが、
  論語は正に円通極まりないものである、という所から「円珠経」と言うと説かれている。

X001A:「論語」 Web漢文

 

X005 :「孫子 (書物)」  WikiPedia      孫子
X005A:「中華的戦略戦術」:孫子の兵法「オリジナルHTML版」
X005A1:孫子の兵法「PDF版」
X005A2:孫子の兵法「編集HTML版」
 
X005B:「孫子」 Web漢文
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Y001 :儒教 : Confucianism  ・・・ WikiPedia
 英語:Confucianism)は、孔子を始祖とする思考・信仰の体系である。紀元前の中国に興り、東アジア各国で
 2000年以上にわたって強い影響力を持つ。その学問的側面から儒学、思想的側面からは名教・礼教ともいう。
 大成者の孔子から、孔教・孔子教とも呼ぶ。中国では、哲学・思想としては儒家思想という。

 東周春秋時代、魯の孔子によって体系化され、堯・舜、文武周公の古えの君子の政治を理想の時代として祖述し、
 周礼を保存する使命を背負った、仁義の道を実践し、上下秩序の弁別を唱えた。その教団は諸子百家の一家と
 なって儒家となり、徳による王道で天下を治めるべきであり、同時代の武力による覇道を批判し、事実、
 そのように歴史が推移してきたとする徳治主義を主張した。その儒教が漢代、国家の教学として認定された
 ことによって成立した。

 儒教は、宋代以前の「五経」を聖典としていた時代である。宋代以降に朱子学によって国家的規模での宋明理学体系に
 纏め上げられていた。宋明理学の特徴は簡潔に述べるならば、「修己治人」あるいは、『大学』にある「修身、斉家、
 治国、平天下」であり、「経世済民」の教えである。
 儒教を自らの行為規範にしようと、儒教を学んだり、研究したりする人のことを儒学者、儒者、儒生と呼ぶ。

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Y001A:日本の儒教  ・・・ WikiPedia
 儒教は、尭、舜の行いに従い、文王武王の法令を信奉し、孔子を尊び、其の言を重んじ神道を以てヘを設けて
 夏・殷・周三代の礼制を踏襲している思想体系で、紀元前の中国に興る。

 日本では儒教は学問(儒学)として受容され、国家統治の経世済民思想や帝王学的な受容をされたため、神道、仏教に
 比べて、宗教として意識されることは少ない。
 なお中国では儒教は「名教」「礼教」「孔教」「孔子教」という呼称があり、宗教として認知されることが多い。

 日本へ儒教が伝わったのは513年、百済より五経博士が渡日して以降のことである。これ以前にも、王仁(わに)が
 『論語』を持って渡来したという伝承が『古事記』などにあり、概ね5世紀頃には伝来していたものと考えられている。

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Y010 :朱子学 : Confucianism  ・・・ WikiPedia
 南宋の朱熹によって再構築された儒教の新しい学問体系。日本で使われる用語であり、中国では、朱熹がみずからの
 先駆者と位置づけた北宋の程頤と合わせて程朱学(程朱理学)・程朱学派と呼ばれ、宋明理学に属す。
 当時は、程頤ら聖人の道を標榜する学派から派生した学の一つとして道学(Daoism)と呼ばれた。
 陸王心学と合わせて人間や物に先天的に存在するという理に依拠して学説が作られているため理学(宋明理学)と呼ばれ、
 また、清代、漢唐訓詁学に依拠する漢学からは宋学と呼ばれた。

 朱熹は、それまでばらばらで矛盾を含んでいた北宋の学説を、程頤による性即理説(性(人間の持って生まれた本性)が
 すなわち理であるとする)や程の天理(天が理である)をもとに、仏教思想の論理体系性、道教の生成論および
 静坐という行法を取り込みつつも、それを代替する儒教独自の理論にもとづく壮大な学問体系に仕立て上げた。
 そこでは、自己と社会、自己と宇宙は、理という普遍的原理を通して結ばれており(理一分殊)、自己修養(修己)に
 よる理の把握から社会秩序の維持(治人)に到ることができるとする、個人と社会を統合する思想を提唱した。
 なお朱子の理とは、理は形而上のもの、気は形而下のものであってまったく別の二物(「理気二元論」)であるが、
 たがいに単独で存在することができず、両者は「不離不雑」の関係であるとする。

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Y011 :陽明学 : Neo-Confucianism’(新儒学)  ・・・ WikiPedia
 中国の明代(1368-1644年)に、王陽明がおこした儒教の一派で、孟子の性善説の系譜に連なる。
 陽明学という呼び名は明治日本以降広まったもので、それ以前は王学といっていた。
 また漢唐の訓詁学や清の考証学との違いを鮮明にするときは、(宋明)理学と呼び、同じ理学でも
 朱子学と区別する際には心学あるいは明学、陸王学ともいう。
 英語圏では朱子学とともに‘Neo-Confucianism’(新儒学)に分類される。
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Y100 :孔子  ・・・ WikiPedia
 こうし、ピン音: Kメng zミ; ウェード式: K'ung-tzu、紀元前551年9月28日‐紀元前479年4月11日)、
 春秋時代の中国の思想家、哲学者。儒家の始祖。
 氏名は孔、諱は丘、字は仲尼(ちゅうじ)。孔子とは尊称である(子は先生という意味)。
 ヨーロッパではラテン語化された"Confucius"(孔夫子の音訳、夫子は先生への尊称)の名で知られている。
Y105 :孟子  ・・・ WikiPedia
 孟子(もうし、紀元前372年? - 紀元前289年)は戦国時代中国の儒学者。
 姓は不詳、氏は孟、諱は軻(か)、字は子輿(しよ)。亜聖(あせい)とも称される。
 孟子の「子」とは先生というほどの意。儒教では孔子に次いで重要な人物であり、
 そのため儒教は別名「孔孟の教え」とも呼ばれる。
 あるいはその言行をまとめた書『孟子』(もうじ)。性善説を主張し、仁義による
 王道政治を目指した。
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Y501 :佐藤一斎  ・・・ WikiPedia
 安永元年10月20日(1772年11月14日)- 安政6年9月24日(1859年10月19日))、美濃国岩村藩出身の著名な儒学者。
 諱は担。通称は捨蔵。字を大道。号は一斎のほか、愛日楼、老吾軒。
 『言志四録』: 一斎が後半生の四十余年にわたり記した随想録。指導者のための指針の書。
       『言志録』、『言志後録』、『言志晩録』、『言志耋(てつ)録』の4書の総称。
 「少くして学べば、則ち壮にして為すことあり,
  壮にして学べば、則ち老いて衰えず,
  老いて学べば、則ち死して朽ちず。」

 儒学の大成者として公に認められ、天保12年(1841年)に述斎が没したため、昌平黌の儒官(総長)を命じられ、
 広く崇められた。当然、朱子学が専門だが、その広い見識は陽明学まで及び、学問仲間から尊敬をこめて『陽朱陰王』と呼ばれた。
 門下生は3,000人と言われ、一斎の膝下から育った弟子として、山田方谷佐久間象山渡辺崋山横井小楠等、いずれも幕末に
  活躍した人材たちがいる。同門の友人には松崎慊堂がいる。

Y501A:昌平坂学問所  ・・・ WikiPedia
 1790年(寛政2年)、神田湯島に設立された江戸幕府直轄の教学機関・施設。正式の名称は「学問所」であり「昌平黌」(しょうへいこう)とも称される。
 もともとは1630年(寛永7年)、徳川家康から与えられた上野忍岡の屋敷地で林羅山が営んだ儒学の私塾を起源とする。
 羅山は、ここに孔子廟を設けてその祭祀を行い、これらの維持運営はその後代々の林家当主(大学頭)が継承したが、
 その後1690年(元禄3年)、将軍徳川綱吉が神田湯島にこの孔子廟を移築することを命じ、この際講堂・学寮が整備され、
 この地は孔子の生地である「昌平郷」にちなんで「昌平坂」と命名された。

 ついで1790年(寛政2年)、いわゆる「寛政異学の禁」により幕府の教学政策として朱子学が奨励され、その一環として
 林家の私塾であった「学問所」を林家から切り離し、「聖堂学規」や職制の制定など、1797年までに制度上の整備を
 進めて幕府の直轄機関とした。これが幕府教学機関としての昌平坂学問所の成立である。
 この時外部から尾藤二洲・古賀精里が教授として招聘され、以後は直参のみならず藩士・郷士・浪人の聴講入門も許可された。

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Y531 :山田方谷  ・・・ WikiPedia
 やまだ ほうこく、文化2年2月21日(1805年3月21日) - 明治10年(1877年)6月26日)は、幕末期の儒家・陽明学者。
 名は球、通称は安五郎。方谷は号。備中聖人と称された。
 20歳で士分に取立てられ、藩校の筆頭教授に任命された。その後、藩政にも参加、財政の建て直しに貢献した。
 幕末の混乱期には苦渋の決断により、藩を滅亡から回避させることに成功した。しかし、明治維新後は多くの招聘の声をすべて断り、
 一民間教育者として亡くなった。

 方谷は29歳のとき、京都遊学で陽明学と出会う。このとき、王陽明の伝習録から朱子学陽明学のそれぞれの利点と欠点を理解し、
 正しい学び方を修得した。
 朱子学の利点は、
      初心者でも学問の順を追って学べば深く学ぶことができる。しかし、我が心の内を忘れて我が心が得心して
       いるかは問わないという欠点があった。

 一方、陽明学の利点は
      我が心が得心しているのかを問うて人間性の本質に迫ることができ、道理を正しく判別でき、事業に
       おいては成果を出すことができる。
       しかし、私欲にかられた心で行為に走ると道理の判断を誤ることが多いという欠点があった。
       よって、先人達の教訓や古典から真摯に学び、努力することが求められる。

 この後、方谷は弟子達から陽明学の教えを請われても安易に教えることはせず、朱子学を深く学ぶことを諭した。
 これは、己の心のままに行為に走ってしまいやすい陽明学の欠点を熟知していたことによる。

方谷が説く「理財論」および「擬対策」の実践で、藩政改革を成功させた。
    理財論は;
      方谷の経済論。漢の時代の董仲舒の言葉である「義を明らかにして利を計らず」の考え方で、改革を進めた。
      つまり、綱紀を整え、政令を明らかにするのが義であるが、その義をあきらかにせずに利である飢餓を
      逃れようと事の内に立った改革では成果はあげられない。その場しのぎの飢餓対策を進めるのではなく、
      事の外に立って義と利の分別をつけていけば、おのずと道は開け飢餓する者はいなくなることを説いた。

    擬対策は;
      方谷の政治論。天下の士風が衰え、賄賂が公然と行われたり度をこえて贅沢なことが、財政を圧迫する
      要因になっているのでこれらを改めることを説いた。

 方谷の思想は後に、弟子の三島中洲の「義利合一論」へと発展して、渋沢栄一らに影響を与えることになった。
 また、至誠惻怛(しせいそくだつ)という真心と慈愛の精神を説いたことでも知られる。

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Y541 :佐久間象山  ・・・ WikiPedia
 江戸時代後期の松代藩士、兵学者・朱子学者・思想家。松代三山の一人。通称は修理(しゅうり)、諱は国忠(くにただ)、
 のちに啓(ひらき)、字は子迪(してき)後に子明(しめい)と称した。
 象山の号は近隣の黄檗宗象山恵明禅寺に因んだとされる。その呼称については、一般に「しょうざん」、地元では「ぞうざん」と
 呼ばれており、弘化2年(1845年)に象山自身が松代本誓寺への奉納文書に「後の人我が名を呼ぶなばまさに知るべし」として、
 反切法を用いて「しょうざん」と呼ぶように書き残している。象山は松代藩の下級武士の出であり、若年期に経学と数学を学んだ。
 とりわけ象山は数学に興味を示し、熱心に学んだ。若年期に数学の素養を深く身に着けたことは、この後の彼の洋学吸収に大きく益した。

 天保4年(1833年)11月に江戸に出て、当時の儒学の第一人者・佐藤一斎に詩文・朱子学を学び、山田方谷と共に「二傑」と称されるに至る。
 ただ、当時の象山は、西洋に対する認識は芽生えつつあったものの、基本的には「伝統的な知識人」であった。天保10年(1839年)には
 江戸で私塾「象山書院」を開いているが、ここで象山が教えていたのは儒学だった。
 ところが天保13年(1842年)、象山が仕える松代藩主・真田幸貫が老中兼任で海防掛に任ぜられて以降、状況が一変する。幸貫から
 洋学研究の担当者として白羽の矢を立てられ、象山は江川英龍の下で、兵学を学ぶことになる。

        ***************************************************************************
        **  宇宙に実理は二つなし。この理あるところ、天地もこれに異なる能わず。
        **  鬼神もこれに異なる能わず。百世の聖人もこれに異なる能わず。
        **  近来西洋人の発明する所の許多の学術は、要するに皆実理にして、
        **  まさに以って我が聖学を資くる足る。
        ***************************************************************************

 象山は西洋兵学の素養を身につけることに成功し、藩主・幸貫に『海防八策』を献上し高い評価を受けた。また、江川や高島秋帆の
 技術を取り入れつつ大砲の鋳造に成功し、その名をより高めた。
 これ以降、象山は兵学のみならず、西洋の学問そのものに大きな関心を寄せるようになる。嘉永2年(1849年)に日本初の指示電信機に
 よる電信を行ったほか、ガラスの製造や地震予知器の開発に成功し、更には牛痘種の導入も企図していた。
 嘉永6年(1853年)にペリーが浦賀に来航した時も、象山は視察として浦賀の地を訪れている。

 しかし嘉永7年(1854年)、再び来航したペリーの艦隊に門弟の吉田松陰が密航を企て、失敗するという事件が起こる。象山も事件に
 連座して伝馬町に入獄する羽目になり、更にその後は文久2年(1862年)まで、松代での蟄居を余儀なくされる。

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Y551 :松崎慊堂  ・・・ WikiPedia
 明和8年9月29日(1771年11月5日) - 天保15年4月21日(1844年6月6日))は江戸時代後期の儒学者。名は密または復。
 字は退蔵・明復。別号は益城。諡号を五経先生という。

 蛮社の獄により捕らえられていた、門人・渡辺崋山の身を案じて1840年(天保10年)に病をおして建白書を草し、
 老中・水野忠邦に提出する。慊堂は建白書の中で、崋山の人となりを述べ、彼の『慎機論』が政治を誹謗した罪に
 問われているとのことだが、元来政治誹謗の罪などは聖賢の世にあるべき道理がないということを、春秋戦国・
 唐・明・清の諸律を参照して証明し、もし公にしない反古を証拠に罪を問うならば誰が犯罪者であることを免れようか、
 と痛論した。この文書の迫力でまず水野忠邦が動かされ、崋山は死一等を減ぜられたという。他の門人として、塩谷宕陰・
 安井息軒などがいる。
 文政・天保年間で大儒と称せられたのは佐藤一斎と慊堂だったが、実際の学力においては一斎は慊堂に及ばず、聡明で
 世事に練達していたから慊堂と同等の名声を維持することができたといわれた。狩谷h斎らの町人学者と交遊し、
 はじめ朱子学を学んだがその空理性を嫌い、考証学を構築した。

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Y561 :渡辺崋山  ・・・ WikiPedia
 寛政5年9月16日(1793年10月20日) - 天保12年10月11日(1841年11月23日))は、江戸時代後期の武士、画家。三河国田原藩
 (現在の愛知県田原市東部)の藩士であり、のち家老となった。通称は登(のぼり・ただし一部の絵には「のぼる」と揮毫)、
 諱(真名:まな)は定静(さだやす)。号ははじめ華山で、35歳ころに崋山と改めた。号は他にも全楽堂、寓画堂など。
 田原藩士の鷹見星皐から儒学(朱子学)を学び、18歳のときには昌平坂学問所に通い佐藤一斎から教えを受け、
 後には松崎慊堂からも学んだ。また、佐藤信淵からは農学を学んだ。
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Y571 :明治国家のグランドデザイン:横井小楠
Y571A:書名:横井小楠のすべて ,著者名:源了円〔ほか〕編 ,出版社:新人物往来社
Y571B:横井小楠を偲びて ,山崎正董述 ,昭和24年2月15日 横井小楠先生顕彰講演会講演録 熊本県教育委員会
Y571D:横井小楠  ・・・ WikiPedia
 よこい しょうなん、文化6年8月13日(1809年9月22日)- 明治2年1月5日(1869年2月15日))は、日本の武士(熊本藩士)、
 儒学者、政治家。維新の十傑の1人。
 熊本藩において藩政改革を試みるが、反対派による攻撃により失敗。その後、福井藩の松平春嶽に招かれ政治顧問となり、
 幕政改革や公武合体の推進などにおいて活躍する。 明治維新後に新政府に参与として出仕するが暗殺された。
 本姓は平氏。「小楠」は、彼が使った号の一つ。諱は「時存」(「ときひろ」「ときあり」)であり、正式な名のりは平時存
 (たいら の ときひろ / ときあり)。 通称は「平四郎」で、北条平四郎時存、北条四郎平時存ともいう。

 安政2年(1855年)、農村の沼山津に転居し、自宅を「四時軒」(しじけん)と名づけ、自身の号も地名にちなんで「沼山」とする。
 坂本龍馬や井上毅など、明治維新の立役者や後の明治新政府の中枢の多くがここを訪問している。元治元年(1864年)2月に
 熊本で龍馬は小楠を訪ね、小楠は「国是三論」国是七条」「国是十二条」を説いた。
 松平春嶽の政治顧問として招かれ、福井藩の藩政改革、さらには江戸幕府の政事総裁職であった春嶽の助言者として幕政改革に
 かかわる。

 鎖国体制・幕藩体制を批判し、それに代わり得る新しい国家と社会の構想を公共と交易の立場から模索した。
 小楠は、公共性・公共圏を実現するために、「講習討論」「朋友講学」といった身分階層を超えた討議を政治運営のもっとも
 重要な営為として重視した。また、交易を重視する立場から、外国との通商貿易をすすめ、産業の振興をも交易として捉えて
 国内における自律的な経済発展の方策を建議し、そのために幕府・藩を越えた統一国家の必要性を説いた。

 体系的に小楠の国家論が提示された文書として、万延元年(1860年)に越前福井藩の藩政改革のために執筆された『国是三論』が
 ある。
 そのほか、学問と政治のむすびつきを論じた嘉永5年(1852年)執筆の『学校問答書』、マシュー・ペリーやエフィム・
 プチャーチンへの対応についての意見書である嘉永6年(1853年)執筆の『夷虜応接大意』、元治元年(1864年)の井上毅との
 対話の記録『沼山対話』、慶応元年(1865年)の元田永孚との対話の記録『沼山閑話』などがある。

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Y591 :坂本龍馬  ・・・ WikiPedia
 天保6年11月15日(1836年1月3日) - 慶応3年11月15日(1867年12月10日))は、江戸時代末期の志士、土佐藩郷士。
 諱(真名:まな)は直陰(なおかげ)、のちに直柔 (なおなり)。龍馬は通称。 他に才谷 梅太郎(さいだに うめたろう)などの
 変名がある。
 土佐郷士に生まれ、脱藩した後は志士として活動し、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中(後の海援隊)を結成した。
 薩長同盟の斡旋、大政奉還の成立に尽力するなど倒幕および明治維新に影響を与えた。大政奉還成立の1ヶ月後に近江屋事件で
 暗殺された。
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Y611 :渋沢栄一  ・・・ WikiPedia
 天保11年2月13日(1840年3月16日) - 昭和6年(1931年)11月11日)は、江戸時代末期(幕末)から大正初期にかけての
 日本の武士(幕臣)、官僚、実業家。第一国立銀行や東京証券取引所などといった多種多様な企業の設立・経営に関わり、
 日本資本主義の父といわれる。理化学研究所の創設者でもある。
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Z100 :未来の市場規模  ・・・ 日経
 

 
Z200 :企業の事業開発者のためのWebメディア  ・・・ Bizne ビズジン
 
Z201_1:意思決定プロセスを変革するOKRとは?
  第一回: なぜ飛躍する企業はOKRを導入しているのか――Google、メルカリを支える、企業と個人の目標設定

            OKR:Objectives & Key Results:目標管理手法
               結果(=Key Results)は具体的、計測可能、検証可能でなければならず、
                すべての結果を達成すれば目標(=Objective)を成し遂げたことになる。

    1/5  Googleの働き方と成長の基盤となっている目標管理手法「OKR」とは
    2/5  「野心的な目標設定」だけでは失敗する――従来型の目標管理とOKRの違い
    3/5  ビジネスモデルの変革に対応した組織作りを可能にする「透明性」とは
    4/5  企業とメンバーのビジョンをつなげる――OKRの目標設定によるコミュニケーション
    5/5  企業の成長を加速させる、意思決定のための“状況報告レポート”とは
Z201_2:意思決定プロセスを変革するOKRとは?
  第二回: インテルの事例に学ぶ[OKR]の“4つの威力”──企業の“5つのフェーズ”に応じたOKR導入方法とは?

    1/6  窮地を脱するためにOKRを生み出したインテル──快進撃を支えたOKRの“4つの威力”(1)
    2/6  高い目標を設定し、目標達成の主要な結果を定量的に観測する──快進撃を支えたOKRの“4つの威力”(2)
    3/6  OKRを導入・運用する前に整理すべきコミュニケーションの“5つのフェーズ”
    4/6  「企業として目標がない」「部門ごとに目標を定めている」──各フェーズに効く“4つの威力”の処方箋(1)
    5/6  「メンバーと事業の目標を理解する」「部門ごとに連携する」──各フェーズに効く“4つの威力”の処方箋(2)
    6/6  「クリエイティビティを発揮できる風土に変える」──各フェーズに効く“4つの威力”の処方箋(3)
 
Z202_1:Biz/Zineセミナーレポート 『ナラティヴ・アプローチ』ワークショップレポート
 【前編】 宇田川先生が語る、違和感を表に出して語れる関係を作る「アダプティブ・リーダー」が組織変革に必要な理由

    1/4  ”知識はあってもできない”、“問題解決ではなく問題解消”を実感する効果
    2/4  ナラティヴ・アプローチは想定外の出来事を受け入れるための実践的研究領域である
    3/4  組織のリーダーが向き合うべき「適応課題」とは
    4/4  語ることが出来なかったことを、語れるようにするための「問題の外在化」
Z202_2:Biz/Zineセミナーレポート 『ナラティヴ・アプローチ』ワークショップレポート
 【後編】 問題に名前をつける「外在化」の威力を知る──「組織的対話」に存在する障壁の高さを解消するには?

    1/5  「知っている」を「できる」にする方法をワークショップで学ぶ
    2/5  問題に名前をつけ、外在化することによって見えてくるもの
    3/5  問題はあなたを、そして組織を“助け”に来ている
    4/5  上司が「困っている」と吐露することで始まる対話
    4/5  組織的対話に関心のない人を巻き込む方法は、「A or B」ではなく「A and B」
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Z300 :組織のサイロ化とうまくつきあうために、個人的にやっている4つの方法  ・・・ NaeNote.net
組織サイロ化問題の悪影響とその原因
  ・ 判断:意思決定
  ・ 連携:関係者コミュニケーション
  ・ 作業:各人が一人で行うタスク
組織のサイロ化とのつきあい方
  1) 先手で段取りを設計しきる
  2) 想定外のとき用の相談時間を確保する
  3) 草の根的な「雑談」を続ける
  4) 役割分担を再定義する
「アメーバ型組織」は事業会社では無理?
 
< まとめ:サイロ化は経営レベルの課題 >
  ★ 先手で段取りを設計しきる
  ★ 想定外のとき用の相談時間を確保する
  ★ 草の根的な「雑談」を続ける
  ★ 役割分担の見直しを迫る
Z300 :管理のための管理のための管理…管理で消耗し続ける大企業病の悪循環  ・・・ NaeNote.net
プロジェクト管理は大事な仕事
  ・ Quality:十分な品質の成果物を
  ・ Cost:予定されたコスト内で
  ・ Delivery:納期までに提出する
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  ◎ 合理性:前提、段取り、全体の流れに不整合がないこと
  ◎ 実現性:各作業に割かれるリソースや時間が十分であること
  ◎ 経済性:全体として予算を超えないこと
  
管理は「見える化」で先を見通す大事な仕事
管理のための管理に走る理由は、リスクへの恐怖心
管理のための管理ばかりでは仕事は全く進まない
 
< まとめ:管理のための管理はやめて、リスクテイクする覚悟を決めよ >

 
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